「指さない将棋ファン」という思想③

第2章は、梅田さんによる79期棋聖戦のウェブ観戦記である。実はもうウェブ上には残っていない。当時は産経新聞のウェブサイト上にアップロードされていた。ちなみに80期の棋聖戦のウェブ観戦記のほうは残っている。将棋連盟が観戦記ブログを管理しだしたからだ。ともかく、先に第3章を見たい。そこで梅田さんがウェブ観戦記について、種明かしをしているのだ。
まず、これまでの流れを復習しておこう。序章で明らかにされたのは、梅田さんによる「指さない将棋ファン」宣言である。それと同時に、「指さないが物申す将棋ファン」宣言もなされているということである。疑問として残るのは、どのようにしてものを申すのかということである。
梅田さんは、3章で渡辺明竜王の「頭脳勝負」を引用する。


将棋を指すのは弱くとも、「観て楽しむ」ことは十分できます。例えばプロ野球を見る時。「今のは振っちゃダメなんだよ!」とか「それくらい捕れよ!」。サッカーを見る時、「そこじゃないよ!今、右サイドが空いていたんじゃんか!」(中略)言いながら見ますよ。それと同じことを将棋でもやってもらいたいのです。



つまり、野球ファンと同じ目線で将棋を愉しめばいいということだ。だが、これを敷居の低いことだと思ってはいけない。野球ファンとは、野球のルールだけでなく楽しみ方を知っている人たちである。梅田さんもそのことを知ってか、野球の楽しみ方にも最低限の流儀があるという。


文章と同様、野球の試合には連続した流れがある。パラグラフと同様、ひとつひとつが前後のつながりのなかで進行していく。それを楽しむためには、まずそれを読むことができなければならない。野球を楽しむには、野球の言葉を読むことがもとめられるのだ。(『野球術』ジョージ・ウィル著より)



野球の言語を知るように、将棋の言語を知るということである。たとえば、「戦法」というのはそのひとつであろう。一手損角換わりについて語ったというのは、「指さない将棋ファン」に共有されるべき言葉を提示したということである。逆に言うと、それについてわからないのなら「指さない将棋ファン」になれないということである。別にブログを読んだ段階で、「指さない将棋ファン」の要件を満たしている必要はない。それを啓蒙するのが書き手の役割であるし、それを契機として学べばいいだけである。
問題は、ブログという速報性をもつメディアと読ませる文章を提示することが両立しうるかという点である。梅田さんはこの取り組みを、一種のチャレンジであったと告白している。


この実験を見たプロ棋士が、私のような素人にもできたことなのだから「自分こそが」と本気になって、対局者の心理や指し手の解説を含めたリアルタイム・ウェブ観戦記を書いてくれたら、将棋ファンにとてどんなに素晴らしいだろう。そんなことを思いながらの実験だった。



「素人にもできた」と梅田さんは言う。ここで本当に成功したか、失敗だったのかについての判断については後回しにする。このような梅田さんの情報発信が「指さない将棋ファン」としての立場というよりもむしろ、「指さないが物申す将棋ファン」としての立場から提供したものであることを言及するにとどめておく。序章では、それは自分のフィールドと将棋とを結びつけることであった。思想・哲学の話をしたり、知のオープン化という話をもちだしたりしたのは、その例である。
次回は実際に第2章を見て、梅田さんのチャレンジについて検討してみようと思う。

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